僕たちはどう生きるのか
人間のあるべき姿とは何か。
そもそも、正しい生き方とは何なのか。
マレーシアに住み、国境を超えた沢山の人と出会ってきた。
海外に住んでみると、日本では出会わない状況に沢山遭遇する。
タクシーでぼったくられたり、大事なアポイントメントを1時間以上待たされたり、コンビニで謎に笑われたり、、
そんな中で、「あぁ、マレーシアはそういう国だから」と自分を押し殺している自分がいた。
自分がどんどんマレーシアに染まっているような気分になり、自分が溶けてなくなるような感覚になった。
そして先日、友人の家にあったこの本を手にとり、
僕はどう生きるのかを考えた。
一人の中学生と彼の叔父が日々の生活の中で起こる疑問を元に人間としての生き方を考える物語。 1937年に初出されるも、今もなお読み継がれている歴史的名著である。
都合がいいはラク
たいがいの人が、手前勝手な考え方におちいって、ものの真相がわからなくなり、自分に都合の良いことだけを見てゆこうとするものなんだ。
人間はどうしても自分本位に物事を考えてしまう生き物だ。
理由は単純で、その方がラクだから。
マレーシアに住んでる外国人は時間にルーズになりがち。
「マレーシアって時間にルーズだから、まぁいいっしょ!」みたいな感じで、
待ち合わせに遅れてしまったり、仕事にもちょっと遅刻してしまう人も少なくはない。
もちろん、マレー人でも時間に厳しい人はたくさんいるし、僕の仕事場でも毎日15分前には席についているマレー社員を何人もみてきた。
自分に都合の良い考え方をし、他国のマイナスイメージを利用して「時間にはある程度ルーズでもOK」と自分を正当化してしまう外国人が少なくはない。
それを、僕はいけないことだと思う。
理由は、他人の時間を無駄にしているから。
大ごとに言うと、人の寿命を縮めてしまっているから。
そして、それを環境を言い訳に都合よく解釈してしまうのはもっとだめなことだと思う。
下に見るヤツら
自分の人間としての値打ちに本当の自信をもっている人だったら、境遇がちっとやそっとどうなっても、ちゃんと落ち着いて生きていられるはずなんだ。
マレーシアを含め、アジアで生活してみると。現地人に対して偉そうな態度を取ったり強く当たる外国人をよくみかける。
「おまえ日本で絶対そんなことしないだろ」ってヤツ。
例えば、店員に強く当たったり、会話の中で現地人を見下すようなことを言う奴。
僕は、それを間違っていると思う。
同じ人間だから、給料や能力の差で人間を判断するのはいけない。
その、人間の中身(値打ち)で人間をみない人は軽蔑に値する。
そんな僕も、以前マレーシア人を下に見ていたかもしれないと思うことがあった。
ある日、コピー屋さんでパスポートのスキャンを頼んだ時、店員に何言ってるかわからんと怒鳴られ、僕もつい怒鳴り返してしまったのだ。
自分でもびっくりした。今まで店員に怒鳴ったことなどなかったから。
その店員を「マレーシア人、接客くそだろ」とマレーシアのサービスを一括りにして、下にみて怒鳴ったのか。
はたまた、「これは素直に人間として正しい行為ではない」とその個人と素直に向き合った結果の、憤りの怒鳴りだったのか。
ただ、「日本では怒鳴ったりしないのにマレーシアでは怒鳴ってしまった」という点で何か不自然な気分になったことは確かだ。
では、どう正しく生きていけばいいの?
感じたものが全て
心に感じる苦しみやつらさは人間が人間として正常な状態にいないことから生じて、そのことを僕たちに知らせてくれるものだ。
その答えは、自分の感情にフォローすること。
自分の中で、「これはだめなこと」「これはいいこと」と考える時、まず感情が先にくる。
「嫌い」「好き」「苦しい」「気持ちい」とか。
そう考えた時、
正しく生きるとは自分の感情に素直になることだと僕は思った。
そして、僕たちは、その苦痛のおかげで、人間が本来どういうものであるべきかということを、しっかりと心に捕らえることができる。
人それぞれ生き方がある。
その土地に合わせた生き方ももちろんある。
そんな沢山の価値観、環境、人の中で私達は生きていく。
その時に、自分の芯になるのは感情だ。
感情はコントロールできない。
感情は生まれてきてしまうものだから。勝手に生まれてくる。
感情が人間の一番ピュアな持ち物だ。
そして、感情は人それぞれ違う。
だから、いろいろな仕事があって、いろいろな本があって、いろいろな音楽があって、いろいろな人間がある。
感情に素直になろう。
海外での生活はこれからも続く。